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2007年6月 7日 (木)

原発被曝者の証言

6月1日に配信されたJANJAN『安全神話の闇に葬られる原発被曝労働者』は、国と原子力産業が何をしているか、よくわかる記事です。ぜひ、ごらんください。
https://www.janjan.jp/living/0706/0705310440/1.php

Higutikenjisanこの記事の背景を知りたくて、樋口健二さんの本を入手しました。

『闇に消される原発被曝者』(三一書房/1981年)からの抜粋

1)1977年3月17日、当時の楢崎弥之助衆議院議員の調査による”原発労働者の被曝実態”が全国で報道された。「原発関係死亡下請労働者内訳」は、事故死31人、放射性被曝死75人、計106人であった。
2)1971年5月27日、敦賀原発原子炉内で不断水穿孔工事にたずさわった岩佐嘉寿幸さんは、2時間半ほどの作業中に被曝、8日目に全身倦怠感・発熱・のちに「放射線皮膚炎」と診断される右膝の症状が現れた。診断の過程で、被曝の事実をもみ消そうとする原電や国の関与があり、それまで労災問題や企業犯罪に関する国の調査委員会が、いかに被害者無視・企業優先により救済を遅らせ犯罪的役割を果たしたかを承知していた岩佐さんは、闇で苦しむ多くの原発被曝者を代表して1974年4月、大阪地裁に提訴。先に結論ありきで情報非開示の調査委員会や、お粗末な御用学者の鑑定がやり直しになるいきさつがありながら、1981年3月、政治的敗訴。
3)原発下請労働者の多くは、農業、炭坑、石油コンビナートで働いてきた貧しい人々。石炭から石油へとエネルギー革命を断行した独占資本と国の政策に翻弄されながら、ついに"原発渡り鳥"として暮らす。
4)昭和33年閉山まで筑豊炭坑にいたHさんは、浜岡原発から福島原発に流れ着いた。浜岡は日給7000円だったが、福島は8000円。「浜岡では50ミリレムとか40ミリレムでもアラームが鳴れば仕事を一応やめていたんで、福島では廃液タンクの足場かけ作業で100ミリレムにセットしたアラームメーターが絶えずビービー鳴り、こんなに放射能を浴びていいのかなあと感じていました。普通1日100ミリレムをを越せばその日の仕事は終わりなのに午後から30ミリレムのアラームメーターを持たされて別の作業にまわされるんだから、人間扱いしていないなと思うとりました。何日目かにパイプが破れて廃水が流れ出し、タンク室も水浸しで、廃水がわしらみんなの長靴を越え、膝上までびしょぬれになってしまったとです。3日もすると、全身にブツブツの湿疹ができ、かゆくてかゆくてしょうがないので病院に行ったが、親身になって話を聞くこともせず、わしらが悪いという態度がどこかにあり、それが原因で帰りました。」
(一般人は自然放射能を年間100ミリレム浴びている。人工放射線と呼ばれる胸のX線撮影で約100ミリレム、胃の透視で1500ミリレム、癌治療では1回に50万ミリレムを浴びる。電力会社は、これら暮らしの中で受ける放射線量と比較して「それでも病気になる人はいない」と問題のすりかえを必ずおこなう)

なお、被曝線量を表す旧レムrem単位は、現在シーベルトSv単位を用います。(1Sv=100rem)
現在、低線量被曝でも癌や白血病を発症する危険性がある、という研究が進んでいます。
「低線量放射線被曝のリスクを見直す」をダウンロード

高知県民をなめたらいかんぜ!!
みなさんの意志表示で核廃棄物拒否条例を制定しようではありませんか。六ヶ所村での再処理を止め、伊方のプルサーマルを止めるためにも。「高知県・核廃棄物拒否条例請願署名用紙」をダウンロード


《写真は樋口健二さんの著作/げき撮影》

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